唯一、駐留軍人と若干の日本人愛好家が’51年に組織したSCCJ(スポーツカー・クラブ・オブ・ジャパン)が船橋のダート競馬場や茂原飛行場を舞台にして自動車レースを開催したのが目立つ程度だった。彼らはまた、東京〜京都間の公道レースを開催したりもしている。その後、’50年代半ばに日本人を中心に再編成されたSCCJが、米軍将校によって結成されたTSCC(東京スポーツカークラブ)と連携し、米軍基地や飛行場でタイムトライアル(現在のジムカーナに似る)が、伊豆長岡の舗装された私道でヒルクライムが催された。その開催数はそれぞれ数十回に達したといわれる。’50年代後半にはラリーも始まり、それに伴って自動車クラブがいくつか産声を上げたが、いずれにせよ、恒久的な競技場=サーキットはこの時点では日本にはまだひとつも存在していなかった。
1962年11月に正式なオープニングレースとして第1回全日本選手権ロードレースが開催され、翌’63年5月には初の本格的モーターレースとなる第1回日本グランプリ自動車レースが開催されると、にわかにモータースポーツ熱は高まった。そして1964年になると、今なお語り草となっているGT&スポーツカーブームが訪れるのだ。自動車とオートバイが総合性能においてとめどなくレベルアップしていくのに比例して、所有台数はどんどん増えていった。1964年、国内の乗用車販売台数は前年比132.9パーセントの42万2984台を数え、生産台数は57万9660台と、世界での占拠率は3.5パーセントに増加した。そしてそれはまだ、日本の自動車産業が一大飛躍する上でのプロローグにすぎなかったのである。
本田宗一郎の宣言 鈴鹿サーキットの誕生を語るには、まず、その生みの親である本田宗一郎のことに触れぬわけにはいかない。本田宗一郎は、終戦間もなく1946年(昭和21年)10月、浜松に本田技術研究所を開設、2年後の9月には本田技研工業株式会社として、後に世界的な名声を得ることになる"ホンダ”の第一歩を印した。機械に対する人一倍の好奇心と情熱、そして人間的魅力とが、良き協力者や従業員を得て、現在のホンダを築いたといえるだろう。そして本田宗一郎の骨子となっているもうひとつの重要なものが、レースだった。1936年(昭和11年)6月に1周1・2kmの多摩スピードウェイ(多摩川河川敷に設けられたオーバルコース)で開催された"第一回自動車競走大会”に自ら改造を施したレーシングカー「浜松号」を駆って出場したほどの、筋金入りのレースマニアだったのだ。その本田宗一郎が1954年(昭和29年)3月20日付けで全社員に呼びかけた"マン島T・Tレース出場宣言”は鈴鹿サーキット誕生への伏線として意味がある。その有名な宣言から一部引用してみよう。 「私の幼き頃よりの夢は、自分で製作した自動車で全世界の自動車競争の覇者となることであった。(中略)今回サンパウロ市に於ける国際オートレースの帰朝報告により、欧米諸国の実状をつぶさに知ることができた。私はかなり現実に拘泥せずに世界を見つめていたつもりであるが、やはり日本の現状に心をとらわれすぎていた事に気がついた。(中略)然し逆に、私年来の着想をもってすれば必ず勝てるという自信が昂然と湧き起こり、持前の斗志がこのままでは許さなくなった。絶対の自信を持てる生産態勢も完備した今、まさに好機至る!明年こそはT・Tレースに出場せんとの決意をここに固めたのである。(中略)全従業員諸君!本田技研の全力を結集して栄冠を勝ちとろう、本田技研の将来は一にかかって諸君の双肩にある。ほとばしる情熱を傾けて如何なる困苦にも耐え、緻密な作業研究に諸君自らの道を貫徹して欲しい。(中略)日本の機械工業の真価を問い、此れを全世界に誇示するまでにしなければならない。吾が本田技研の使命は日本産業の啓蒙にある。ここに私の決意を披歴し、T・Tレースに出場、優勝するために、精魂を傾けて創意工夫に努力することを諸君と共に誓う」(原文のまま) 今や伝説となっている浅間火山オートバイレースが大々的に始まるのが、この宣言の翌年のこと、まだそれすらも行われていない。そして、日本のオートバイが当時世界最高のレースとされていたマン島TTレースに初挑戦したのは’59年、もちろんそれはホンダだった。そのわずか2年後の’61年、ホンダはTTレースで圧勝を演じる。ホンダに続いてヤマハやスズキも世界GPに雄飛、日本製バイクはその優秀性でアッという間に欧米の既成勢力を駆逐してしまった。 |

さらにもうひとつ、大きく違っていたのは、出場各者の格段の競争力アップ。50ccのベストラップタイムを例にあげれば、なんと6秒4も短縮されたというのだから驚くばかり。世界選手権のかけられた2回目のレースにして、日本のレースファンはトップクラスのめざましい飛躍というものを、タイム上で知らされるのである。その50ccレースは、スズキが不参加し、5台のホンダによるレースとなってしまった。だが、内容的には低調だった50ccレースをカバーしたのは125ccレース。
この一戦は波乱に富んだ展開で、有力者がトラブルで相次ぎ脱落。スタートで出遅れて最後尾に下がったE.デグナーが猛然と追い上げ、レース中盤には、トップに進出、そのまま逃げ切った。彼にとっては、前年の「デグナーカーブ」での転倒で負傷後、カムバックしてから初めての優勝だった。
前年の第1回全日本選手権ロードレースには、コースに対するFIMの査察があった。その結果が、満足すべきものだったことは、1963年に証明される。コースオープンから1年目にして早くも世界選手権が鈴鹿サーキットで開催されたからである。それが第1回日本グランプリロードレースだった。しかも世界選手権の最終戦(12戦目)という重要な一戦としてだから、なお一層の価値があった。種目によっては、この第1回日本グランプリでタイトルが決定されるのだ。事実、このシーズンは、350ccがJ.レッドマン/ホンダに、125ccがH.アンダーソン/スズキに、ライダー/メーカー両タイトルが、さらに50ccのメーカータイトルが決定している以外、鈴鹿で覇が競われることになった。
オープニングレース 第1回全日本選手権ロードレース (1962年11月3〜4日) 9月の完成記念にはエキジビションレースが行われたが、本格的なレースは11月の第1回全日本選手権ロードレースが初めて。しかも、世界の強豪が出場するというのだから、話題性にあふれていた。3、4日の両日で、延べ28万名の観客が訪れた事が、その証明になるだろう。 日本の出場者にとっても、観客にとっても、国際級のレーシングコースはかなりのインパクトを感じさせた。それまでのレースといえば、観客席も専用のピットもない浅間のコース。その上、鈴鹿には世界有数のライダーが集結しているのだから、「ここが本当に日本なのか」と見まがう人が多かったというエピソードが残されている。 レースは、3日にノービス50cc、250cc、セニア125cc、350cc、セニア50cc、250ccレースが行われた。世界のライダーが出場するセニアクラスの4レースには誰もが魅了された。なかでも波乱に富んでいたのが50ccレース。ホンダ対スズキの白熱した対決に加え、トップに立っていたライダーが次々とリタイアしたからだ。
トップを快走したE.デグナーが立体交差手前の右80Rで4周目に転倒、以来、そのコーナーがデグナーカーブと呼ばれるようになったのはあまりにも有名な話である。 |
鈴鹿サーキットの開設目的は、著しく発展する日本のモーターリゼーションを予想したかのようだった。青少年が、楽しみながら自動車およびエンジンを備えた乗り物を通じ、科学技術に親しみ、体得するというねらいは時流を先どりしていたし、運転技術の指導は健全に実を結んでいく。'64年9月に行われた最初の白バイ・パトカーの運転技術指導は、鈴鹿サーキットの提唱した安全運転技術指導の具体例で、これは年々発展し、現在の「安全運転研修会」の母体となっている。